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招魂の香


 左大臣の二の姫・美子は近頃、憂鬱な溜め息ばかりつく。
 頃は平安のなかば。華やかなる雰囲気に溢れ、雅びで官能的かつ退廃的な絵物語が繰り広げられていた。美子も、間違いなく世の空気を吸っている。が、愁眉はひらくことなく物憂げである。
「ねえさま、お祝い事を控えているのに、なんて顔してるの」
 三の姫・薔子が呆れた口調で姉のまえに座った。
 薔子は十七歳になる美子よりふたつ下の十五歳である。背格好はそう変わらないが、姉が清楚で儚げな美しさを供えているのに対して、妹は目鼻立ちのはっきりした姫である。印象の強さは薔子が勝るが、美子は穏やかで柔和という長所を持っている。笑えば天女が舞い降りたかという錯覚を相手に与え、哀しげな面持ちをすると人は放っておけなくなる。かというと美子は艶やかさを匂わせることもある。勝ち気でさっぱりとした質の薔子は色香とは程遠かった。ゆえに、男達はどこからか伝わる噂だけで薔子よりも美子に懸想した。美子は男心をくすぐる姫なのである。
 薔子の侍女が慌てて脇息を主人の傍に置く。薔子はゆったりともたれかかった。笑顔のない姉の面を見、その手許にある冊子に眼を止めた。
「……伊勢物語? ほんとにすきねぇ」
 咄嗟に美子は本を閉じ、恥ずかしそうに俯いた。
「ねえさまは、在五中将に憧れているんでしょ」
 在五中将とは、平安初期の歌人・在原業平のことである。美男としてもてはやされ、歌の才にも秀でていた。が、在原業平は天皇の孫であったため、権力者・藤原氏に目をつけられ、数々の受難を強いられた。そのなかに、藤原氏の姫である藤原高子との恋がある。はじめは憎き藤原氏の女を篭絡するのが目的であったが、予想に違え、ふたりは恋仲となった。ところが高子はのちの天皇である東宮の妃候補だったのである。ふたりは駆け落ちを決行したが、途中で高子は連れ戻された。業平としても如何ともしがたく、高子は東宮の後宮に入内した。傷心の業平は高子を忘れるために東国に下っていったのである。伊勢物語は在原業平を主人公とし、彼を巡る恋物語である。
「高貴な血筋で美しい在五中将のような男が、高子姫と同じ立場にいる自分を攫ってくれないかと考えているんでしょ」
 妹の鋭い指摘に、美子は言葉をなくす。
 薔子の言う祝い事とは、東宮に入内することをさしている。東宮は美子の歳の離れた異母姉・透子が天皇のもとに入内してもうけた子である。美子には甥にあたり、歳は七つ離れていた。二ヶ月後に入内することとなっているが、正直、美子は嫌でしょうがなかった。十七の自分が、十の少年と婚姻するのである、夢も希望もない。美子には、歌集や物語を通して恋に憧れる心があった。
(歌集や物語に出てくる女人は、だれもが激しい恋をしているわ。みな自分の心に素直に、勇気を持って殿方の胸に飛び込んでいる。わたくしも、愛する男がいれば、今すぐ迷わず飛び込むのに)
 そう思うと、美子は悔しく、哀しくてたまらない。間もなくのことなので、嫁入道具の調度や季節のかさねが出来上がってきているが、見る気もしない。憂い心を、物語で紛らわしていた。
 薔子は、美子とまったく意見が違う。
「在五中将なんてねぇ、大昔の人なのよ。お話の中でしか美しくない男なのよ。今の世の中見渡してみなさいよ、素晴らしい男なんて、どこにもいないんだから。
 今、一番素晴らしい男はね、主上なのよ。主上ならなんでもできるんだから。東宮様もいずれは主上でしょ。ねえさまは、この世で一番恵まれている女なのよ。それを、在五中将がいいなんて……贅沢すぎるわ」
「なら、あなたが入内すればいいでしょう」
 腹立たしく、美子は一言告げた。薔子は口をあんぐり開け、ものも言えない。なにか言おうと唇をぱくぱくしている薔子を無視して、美子は文机に顔を伏せた。
(そうよ、そんなに主上がいいのなら、薔子が入内すればいいじゃない。なにもわたくしでなくとも……)
 美子は唇を噛んだ。
 ことを決めたのは父・左大臣である。当代一の実力者で、東宮の外祖父である。長女は天皇の后になり、野望は更に膨らんでいた。次代の天皇の后を自分の娘にするために、天皇の外戚になるために、左大臣は強行的に次女・美子の入内話を進めた。美子に否やと言う自由は、ない。
 が、美子は妹・薔子が入内してもいいのではないかと本気で考えている。歳もふたつしか違わず、東宮も自分より明るい薔子に懐いていた。それを、どうして自分が……と父を恨めしく思っている。
 知らず知らずに泣きそうになる美子の頬を、そよ風が撫でていく。面をあげると、簾を揺り動かす初秋の風が美子を慰めていた。
 
 婚礼の日を一日一日と数える身には時の流れが速い。物思いに耽っているうちに夜の帳が下りた。
 御帳台の廻りに、香しい薫りが漂い始めた。侍女・佐穂が香炉に香をくべたのである。佐穂は美子の乳姉妹にあたる。
 几帳から顔を覗かせて、美子は佐穂に声をかけた。
「気がつくわね、ありがとう。今宵の香は不思議な香りね」
 他の侍女に寝間着を着せてもらいながら香のくゆりを聞く。枕香を根底にしているが、えもいわれぬ匂いが含まれている。どこか異国の風情がした。
 美子の問いに佐穂は間をおいて応えた。なぜか不自然に感じられた。
「はい。唐渡りの品だとか……」
 どうりで……と美子は心のなかで相槌を打った。
 侍女達が下がると、まだ眠る気にもなれず、美子は寝間着のうえに袿を引きかけて文机に向かう。今の美子には物語がせめてもの慰めだ。伊勢物語や源氏物語、万葉集におのおのの歌の家集……。すべて主人の憂鬱を悟った佐穂が取り寄せてくれた。幼い頃から一緒に育っただけあって、佐穂は察しがよい。美子も佐穂になら本心を打ち明けられるし、佐穂も美子相手にならふざけたりもする。
 半年ほどまえ、佐穂は誰からのものか解らない文を美子に届けた。中身は縷々と想いを綴った恋文で、読んでいる美子までもが煽られるほどの激しさだった。差出人が誰か佐穂に問いつめると、いわくありげに笑って、
『姫さまは本当に幸せな方。こんなに熱烈な想いを寄せておられる殿方がいらっしゃるのだもの』
 いたずらっぽく言った。
 差出人不明の恋文など怪しいものだが、それでも徒然を凌ぐのには格好だった。その恋文も今は届かない。
(すべて、東宮さまに入内するため父さまが払い除けてしまわれた……)
 本心では、あの恋文が誰のものなのか今でも気になる。美子が自分の目で見た唯一の恋文だったから……。それ以外にも文は届いていた。それは、父が仲立ちになっていたものだった。届いていることを知らされるだけで実際見せてもらえることはなかった。それらが、美子の外聞を造るために父が企てた策謀だといまなら解る。男達の高嶺の花を手に入れる愉悦を東宮に与えるためだろう。
(結局、父さまにとってわたくしは政争の具でしかなかったのか……)
 美子の心に絶望と諦観が吹き荒ぶ。物語のなかにでも逃げ込むしか救いはなかった。
(今からでは、恋することなんてできはしない。ましてや、殿方にさらってもらうなんて……。入内する当日があっという間にきてわたくしは一生逃れられぬ牢獄に送られるのだわ) 
 頬杖をつき溜め息を吐く。灯台の芯がじりじりと焦げる音が、まるで自分の心の軋みのようだと思えた。両の手を組み額を臥せる。目を瞑ると香の薫りに身体が包まれているようだ。眠りも揺りかごのごとく押し寄せてくる。
 美子は眠りたくなかった。眠ってしまえば、また一日が終わってしまう。入内の日が近付く。
 夜の静寂と眠りの足が、美子の感覚を朦朧とさせる。風が壁代をかき分けたのさえ気がつかなかった。心無しか、香が咽せるほど濃くなったような気がする。美子が口元に手を充てたのと、異変の到来は同時だった。

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「……っ!」
 力強い腕に後ろから抱き竦められ、美子は戦慄した。身を竦ませ、恐怖を露にするが、腕の力は弱まるどころか増々強くなる。香が身に迫ってくるほど近くに聞こえた。
 あらん限りの力で抗い、身を捩ると、勢いで振り上げた腕が相手の胸に当たった。堅い弾力で弾き返され、自由になった手を掴まれた。
 男、男だ。 
 今ある事態に美子は愕然とした。自分の部屋に男が忍び込んでいる。忍び込んだだけではなく美子を強く抱き締めている。これは、どういうことか、まさか……。
「いやっ、いや……!」
 大声で叫ぼうとしたが、男の大きな手の平に口を塞がれた。もうひとつの手で男は美子の頬に触れ、向き直らせた。否応もなく、美子の目に男の面が入ってくる。
 哀しい瞳が揺れている。 
 なにより、美子の頭にその言葉が過った。切れ長の黒瞳は理性をたたえながらも哀切に揺れ、真摯に美子を見入っていた。整った目鼻立ちは気品があり、貴種の公達さながらだった。色合いのよい狩衣を纏い、風趣がある。まさに、美子が想い描いていた端整な青年がいた。
 美子が固唾を呑むと、男は手を離した。代わりに薄い唇が美子の桜色の唇に近づいてきた。軽く重ねられ、少し乾いた唇の暖かさが美子の心に染み入った。震える息を止めるのがやっとだった。心ならずも唇を奪われたのに、美子の理性に背いてときめきが身を走る。思わず目を閉じてしまった。
 長く感じられたが、瞬時の口づけだった。淡い温もりが離れ、自分の心が名残りを惜しんでいることに気づき美子は動揺した。許したわけではないのに、どうして……美子はうろたえて目を臥せる。心の戦きに驚愕し、つい警戒を解いてしまう。
 うつむいたのを許したと錯覚したのか、男は愛しそうに美子の長い髪を撫で、接吻した。片方の手でいまだに頬を撫で続け、流れるように項に触れた。
 さらに強い震えが美子の身に走った。うっと声を詰まらせると男は微笑み、項に唇を這わせてくる。まるでなめくじが這っているかのようにぬめぬめと湿りがある。背筋に痺れが走り、美子は本能的に身を反らそうとしたが、男の腕がしっかりと捕まえていて逃れられない。髪を弄んでいた手がいつのまにか寝間着ごしに乳房をまさぐっている。覆い被さるようにして男は美子の身体を倒した。
(犯される……!)
 やっとのことで思考がそこまで辿り着いた。このまま男の腕の中に甘んじていてはいけない。美子は必死で暴れ、抵抗した。それとて、男の心を煽るだけである。女のか弱い力が男の虜力に適うはずがなくあっさりと手足の自由を封じられてしまった。女を閉じ込めながらも、男の唇は項から鎖骨を、素肌をなぞっていた。美子も暴れるのに疲れ、諦めとともに身体を横たえていた。男の腕が腰紐に延びても、どうすることもできなかった。涙だけが自由を許され滔々と流れ続ける。
 ふと、男は手を止め美子の泣き顔を見つめた。恥も外聞もなくしゃくりあげる美子に、男はどうしたらよいのか解らないように溜め息をつき、堅い指で涙を拭った。その感触があまりに優しく暖かで、美子は男を見入ってしまう。目があうと男は柔和な笑みを浮かべた。笑顔だけで、心ばかりか身体まで溶けそうになるのを美子は不思議な思いで受け止めていた。溢れ続ける涙に、男は頬に唇をつけ吸い取った。両の目から涙を吸い取り、下りてきた唇が自然と唇に触れた。
(拒めない……)
 男の寂しげな瞳に、甘く優しい笑みに魅せられ、美子の女心が疼いていた。何故か、いたずら心ではなく本当に男に愛されているような気がした。信じてみてもいいように思え、美子は自分から男の腕に背を廻した。
 先ほどとはまったく違う激しい接吻にも素直に応じ、舌を絡めあった。互いの吐息を貪り、喘ぎが漏れはじめる。唾液が顎を伝い、汗と交じりあった。
 男の手が寝間着の袷を開き、空気に素肌が晒されると、美子のうちに羞恥心が湧き起こった。慌てて襟を掻き合わせようとするが、熱に浮かされた男の目に咎められ手を止めてしまう。簡単に手を避けられ、濃桃色の乳首が白磁の肌に浮かび上がった。初々しい乳房を愛でる男に恥じ入り、美子は堅く目を瞑る。男の手はまず豊かな乳房の形を確かめるように包み込み、おずおずと乳首を口に含んだ。男の口腔の中で乳首が尖ってくるのが解る。美子にとって、はじめての感触だった。舌先に転がされ、より鋭敏になっていく。
「あ……っ、やめ…て……っ」
 絶え絶えに口走り、語尾が掠れた。切れ切れの呻きが絶えず漏れ、美子は髪を振り乱し悶えた。長い髪を伝って汗が飛び散る。肌は紅に染まり、うねるように波打っていた。はじめてにしては感じやすく、美しさに凄艶さを添える美子に男は煽り立てられていた。
 性急な手付きで女の腰紐を解き、引き剥がすように脱がせると男は自分も裸になった。美子はちら、と男の身体に目を走らせたがすぐに反らしてしまった。
 精悍な体つきだ。無駄な贅肉はまったくなく、引き締まって房のように筋肉が盛り上がっている。肩から腰、臀部までの流れは完璧で、広い肩幅に堅さのある胸板、窄まった腰……。だが、美子が恥ずかしさのあまり目を背けてしまったのは男の欲望を目の当たりにしてしまったからだ。隆々と屹立する陽根は黒々として、処女の目には刺激が強すぎたのだ。
(今……わたくし、殿方と身体を交わすのね……)
 美子は今更ながらに実感する。
 あと二ヶ月後には入内する身であるというのに、他の男に乙女を与えようとしている。この行為は、重い罪ではないのか。夫ではない男と姦通する、重い罪だ。
(でも、入内など、わたくしが望んだことではない。ここで、わたくしが他の殿方を選んだとしても、咎められる謂れはないわ)
 考えてみれば、ずっとこの一瞬を望み、待ち焦がれていたのではないのか。立派な殿方に攫ってもらうことを願っていたはずだ。目の前に夢にまで見た現実があるというのに、踏み止まりたくはない。なにより、燃え上がる情熱に身を任せてしまいたい。
 美子は決然としていた。
 一糸纏わぬ美子の傍らに身を横たえると、男は女の身体に腕を絡めてきた。美子の下肢を割くように足を挟み、手は肩から乳房、背を腰を、さらには尻に触れてきた。あますところなく接吻の雨を身体に降らせ、一度は醒めかけた官能が爆発しそうになった。自分の身体が制御できないことに戸惑った。
 身体の中を暴走する性感に翻弄されながら、ふと美子は男の注意が下腹部にばかり集まっていることに気がついた。手の平は大腿を撫で双臀を捏ねまわし、股の付け根にいきたそうだった。
「い、いや……そこは、恥ずかしい……」
 いくらなんでも、一番大事な処を灯台の光に晒したくはなかった。必死になって男の手を払い除けようとするが、男の片手に押さえられてしまい、封じられてしまった。一方の手は強引に女の股を開かせた。顔を紅潮させ、美子は目を閉じた。
 与えられた刺激に、女陰はすでに雫をたたえていた。充血し、蠢動する媚肉に蜜が伝い落ちる。見られていることで余計に潤いを増してくる。ひと雫、ひと雫を丁寧にぬぐい取るように、男は舌で舐めた。
一層強い性感に、女は身体を跳ねさせる。うわ言のようにやめて、と繰り返すが、男は聞かず責め続ける。花弁のなかを、花の芽を指と舌で執拗に嬲られ、美子の理性は切れかけていた。意識は朧になり、官能の波に打ち上げられる度になにを口走っているのか解らない。美しい面は汗と涙でぐっしょりと濡れていた。
 女の大きく上下する胸にまで両股を持ち上げると、男は一気に身体を進ませた。舌や指とは違う、鈍い快感が身体を突き抜けた。
 が、美子は違和感を抱いた。
(……? どうして痛みを感じないの? わたくしは生娘だったのに)
 破瓜の痛みが、まったくなかった。快楽だけが次々と襲いくる。美子が疑問に思っている間もなく男は突き上げた。
 男の動きはしだいに速くなってくる。その度に喘ぎが漏れ、ぷつりと切れそうな意識をつなぎ止めるために男の背に強くしがみついた。男の重みが、汗が、呻きが熱が、女の身体を包み込む。
 そのなかに、疑いようもなく鼻孔をつく薫りがあった。男の身体から漂ってくる香……。あの、唐渡りの沈香だった。
(……どうして、この方がこの薫りを?)
 まるで、沈香に抱かれているようだった。香が人の形をとり美子を貫いている。むせ返るように強く、さざ波が返すように、弱く……。交互に押しては返し、美子を絶え絶えに上り詰めさせる。美子も沈香に取りすがり、深くつながっていく。
 ふたりは激しさに我を忘れ、無我夢中に動いた。はじめに美子が高く掠れた声を放ち上り詰め、女の声に導かれて男も精を女の身体に解き放った。気だるさに酔いしれ、縺れ合ったままふたりは身体を重ねていた。やがて男は身体を起こし女に情熱を込めて口づけた。美子も無心に接吻した。

 隣に横たわった男に美子は積極的にすりよっていった。
「こうなったからには、もうわたくしたちは夫婦と思ってもよろしいのですね?  
 どうか、わたくしにあなたのお名を教えては下さいませんか。わたくしの背の君となる方のお名を知りとうございます」
 が、美子の申し出に男は哀しい笑みを見せたのみだった。美子にはそれが男の拒絶に見えた。悄然となり男から離れ、背を向けて寝間着を身につける。
(東宮妃になる女への興味だけで、わたくしを抱かれたのだわ……。初めから、添い遂げるつもりなど……なかったのだわ)
 してみると、自分はあの笑みに騙されていたのか……。結婚を迫る自分から逃れるための方便として哀しい笑みを浮かべているのか……。美子は情けなく、哀しくなってきた。 
「……よく解りましたわ。もうご無理は言いません。あなたにとってはひと夜の遊び……わたくしも、もうすぐ嫁ぐ身です。あやまちと思って、ふたりだけの胸に締まっておきましょう」
 それで、あなたの気がすむのなら……。心の中でだけ恨み言を告げる。そうでもしなければやりきれなかった。自分で決着をつけようとするが、涙が溢れて止まらない。この男の前でだけは涙をみせたくなかった。
 嗚咽で肩を震わせているのを悟られないように単を引き被る。
 男の動く気配が背後でする。と、最初のときのように背中から抱き締められた。美子ははじめよりもかたくなに拒む。
「やめて…くださいませんか」
 言うが、男は力ずくで美子を自分に向き直らせた。咄嗟に涙を隠せず、美子は袖で面を隠すが男は素早く捕らえた。哀しい笑みは変わらないまま、男は首を横に振った。ちがう、と言葉にせずに言っているようだった。しかし、美子もそれだけでは信じられない。
 隠しようもなく泣く美子を男は情熱的に抱き締めた。抱き潰されるかと思うような強さだった。微かに、男の腕が震えているようだった。まるで泣いているかのようだった。
 立場が逆になったようで、美子は困惑する。泣きたいのはこちらのほうだ。それでも肌を交わした男を愛しいと思う心がある。美子も無言で抱き締めた。男の身体がぴくり、と峻慄した。怯えるように身体を震わせ、戸惑いがちに女を抱き締める。
「解りました……わたくしを愛しておられるのなら、明日の宵も来ては下さいませんか。それなら…信じられるかもしれません」
 男は何度も頷いた。その様子が、子供のようだった。
 東の空が白みかける前まで、男は美子の部屋に留まった。何することなく、美子を抱き締めていた。時折、心に刻み込むように美子の顔を食い入るように見つめ、接吻した。
「もう……朝ですわ。早くお帰りにならないと」
 女のもとに通ってきた男が日が昇る前に帰るのはこの頃の慣習であった。名残惜しい気持ちはあるものの、美子は出立を促す。
 男は、またも哀しい笑みを浮かべると、すっくと立ち上がった。美子も涙がちに見上げる。すると……。
「!」
 美子は息を呑んだ。
 男の身体が、身に纏っている狩衣がみるみるうちに透けていくからだ。
「あなたっ!」
 驚いて美子は男に手を差し延ばす。が、男は掻き消え、美子の手は空を掻いただけだった。
「あなた……」
 幻夢か、妖異か……。わけが解らず取り残された美子は茫然と座り込む。あの沈香だけが、男の存在した証しとしてあたりに揺らめいていた。

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 明朝、心中の鬱がきれいさっぱり晴れた美子に、侍女達はそろって驚喜した。が、鬱の靄を感じさせなくなった代わりに、惚けたように座り込んでいる主人に気づいて侍女等は浮かれるのをやめた。
 うつろな面持ちで空を見つめ、重い溜め息を吐く。かと思うとそわそわと落ち着かずに頬を染めたりしている。どう見ても、美子の様子はおかしい。
 すわ、薬師か祈祷かと慌てふためいた侍女をとどめたのは、姉の変心を聞きつけた薔子だった。妹の目から見ても美子に異変があったのは明らかで、薔子は小首を傾げた。
 どこがおかしいのかというと、いつもは見られないなまめかしさを美子が醸していることだ。肌や頬の色はつやつやと血色よく、紅色を含んでいる。何も塗っていないのに唇は濡れたように輝いて潤んだ瞳とともに色香を放っていた。気怠げに脇息に凭れる姿は大輪の花がしおれそうになっている様と似ていた。
「……ねえさま?」
 恐る恐る薔子は姉を覗き込む。急に我に帰ったように、美子は妹に目を止めた。
「どうしたの?」
 まったくあたりの雰囲気に捕われていない美子に、仰々しく薔子は嘆息した。
「どうしたの、じゃないわよ。思わず物の怪に魂を抜かれたのかと思ったじゃない」
「物の怪に、魂を……?」
 小さく、美子は呟く。そしてまた脇息に凭れ考え込んだ。
「ちょっと、ねえさま! 東宮妃となられる方がそれでよろしいの!?」
 薔子が喚き立てるが美子は聞いていない。
(あの方は、物の怪の類いなのかしら……?)
 明け方にはかなく消えてしまったあの男は、はたから見れば物の怪としか言いようがない。が、抱き締めた腕の感触も、伝わってくる肌の温もりも暖かく、生々しかった。物の怪とは、言い切れない。
 実際、美子は戸惑いの極地にいる。
 昨夜の情交はどうにも説明がつき難かった。眠気に蝕まれていたが、男が現われたとき美子には気配が感じられなかった。音もなく忍び寄ってきて、うしろから抱き竦められてしまったのだ。その後の成り行きも、美子には解せない。無理強いに犯されたわけではなかった。男の哀しい瞳を、諦観に捕われた微笑みを見つめるとせつなくなり、気がつくと自ずから積極的に身を与えていたのだ。男が消えたあとでも、美子の胸の熱さ、震えは消えない。彼女の心と身体は、再度男に抱かれるのを望んでいた。どこの誰かも解らない、物の怪かもしれない男だというのに、美子は彼を求めている。それに、実はいうと、あの沈香の薫りを佐穂が焚く前から知っていたような気がするのだ。ただの錯覚かもしれないが……。
 見渡すと、侍女達が心配そうに美子を見つめている。視線の数々が痛く、いたたまれずに美子は顔を背けた。
 ふと、佐穂の姿が目に飛び込んできて、美子は不可解さを覚えた。
(佐穂……?)
 他の侍女とは違い、佐穂は心配そうな表情をまったく見せていなかった。それどころか、いまの美子の焦燥を穏やかな眼差しで見守っていた。
 
「では、おやすみなさいませ」
 夜、香炉に香を焼べると、佐穂はそう言って下がっていった。昨夜と同じ沈香の薫りが御帳台に充満してくる。
(……佐穂は、どうしてみなと同じように驚かないの?)
 寝台のうえに脇息を置いて、美子は身を寄りかからせる。
 この沈香は、佐穂が手に入れたものなのだろう。昨夜美子が聞くと、出所を教えてくれた。そして、あの男から強く薫ってきたのが、この沈香……。はたして、偶然なのか?
(もしや、佐穂はなにか知っている?)
 今朝の自分の様子は、よほど他人の目に奇異に映ったのだろう。みなが同じような案じ顔を浮かべていた。が、佐穂はそんな素振りはなかった。それどころか、美子が寝不足のあまりあくびをすると、理解しているかのように几帳を立て廻して眠れるようにしてくれた。そのかげに、すべてを見すかした微笑みがあった。
(明日、問い質してみようか)
 そう結論づけて美子は壁代をすこし開けてみた。
 別れ際、男と今夜もあうことを約束した。この香を聞いていると、男の足音が聞こえてくるかのようだった。弾む心を押さえて、美子は帳を下ろす。
(この心は、恋なのかしら……?)
 陶然とした溜め息を漏らし、美子は脇息に頬をつけた。
 不意に、膨張したように香の薫りがむせ返った。はっと美子は頭を起こし、御帳台からいざり出した。
 戸惑いと熱情をたたえた瞳をした昨夜の男が、御簾をかき分けて入ってきたのだ。
「来て下さったのですね……!」
 そう言うと美子は男の胸に飛び込んだ。濃い沈香の薫りがあたりに飛び散った。男はしがみついてくる美子を愛しそうに抱き締める。熱情のまま、どちらからともなく激しく唇を貪った。
 昨夜とは違う積極さで、美子は男を御帳台のなかに導き入れた。脇息を几帳の陰に置くと、美子はもういちど男に身を寄せた。男の手が下紐を解くに委ねる。今宵は羞恥がなかった。それどころか、
「ねえ、あなたのお身体を見せては下さいませんか」
 甘くねだられると、男は当惑した。が、美子の期待の目に狩衣の留め金に手をかけた。するすると衣擦れの音がし、やがて均整の取れた肉体が現われた。美子は素直に身体を預ける。
「わたくし、男の方の身体を見たことがないのです。それどころか、男の方自体さえあまり見られなかったのです。いつも殿舎の奥深く、御簾や壁代、几帳に隔てられた、女ばかりのところにいて……。恋文さえ、見たのはただひと方の……」
 語尾に差しかかったとき、男の腕が大きく揺れた。
「どうかなさったのです?」
 案じて美子が尋ねると、男はなんでもないと首を振った。すこしだけ心にかかったが、気にしないことにして美子は続けた。
「だから、男の方に触れたのは昨夜が初めてだったのですよ。でも、急なことでなにがなんだか解りませんでしたけれど」
 ふふっと美子が笑うと、男は彼女の手をとり自分の肩に触らせた。どきり、として美子は一瞬手を止める。咄嗟に男の目を見るが、促されていると解り恐る恐る触れてみた。
 盛り上がった男の肩は、女の美子とはまったく違うものだった。堅く、すこし力んでみても軽く弾き返されてしまう。彼は女と異なる身体を教えるように、美子の手を胸部に導いていく。彼女の指先が男の乳首に触れた。うっ、と男は呻き手を離す。美子は男の様子が面白く、さらに突いたりつねったりしてみた。その度に男は喘ぎを漏らした。
「面白い、男の方でも気持ちよくなったりするのね」
 くすくす笑っている美子を見て、男は女の頭を抱えると自分の胸に持ってきて唇に胸の突起をつけた。男の言いたいことを察し、口の中に含んでみる。転がしたり、甘く噛んでみたりして、男の反応を楽しんだ。
 その間にも、男の手は、唇は美子の身体を愛撫する。耳元に息を吹きかけられ、美子は動きを止めてしまった。耳たぶを舐め、甘噛みされて彼女は身体を震わせる。その隙に身体を押し拉がれ、乳房を強く揉まれた。乳房は男の手の中で柔らかく潰れ、離すともとの形に戻った。女が首筋を逸らせると、男は白い項を強く吸った。たまらず、美子は男の肩にしがみつく。  
 と、男はなにを思い付いたのか、美子の手をとり自分の下腹部……そそり立った男根に触れさせた。驚いて、美子は手を離してしまう。が、男は再度手をとり、堅くなったものに手を添え上下に撫でさせた。何も知らない美子に、男女の愛しあい方を教えていた。美子も、もう恐れなかった。男が教える通りやってみせた。男の口に陰部を与え、自分は男の陽物を口に含んだ。教えられたとおり舐めてみるが、同じく花芯を攻める男のほうが馴れているので彼女は何も出来なくなった。昨夜以上に、狂ったように乱れた。
 堪えきれずに男は女の身体を抱き竦め、とろとろと蜜を滴らせる花弁に欲望の塊を埋め込んだ。あっと、女が声を放つ。理性はとうの昔に吹き飛んで、熱情のままに蠢く獣と化した。男と女の切れ切れの息遣いが部屋のなかを舞う。女のなかが空白になった瞬間、一声呻いたかと思うと、男の身体が急に重くなり脱力した。男の情熱が胎内に注ぎ込まれたのを、女は感じていた。
 潤んだ瞳を美子の目に当てると、男は耳元に囁いた。
「愛している……」
 初めて聞く男の声は、低く澄んでいた。
 男の言葉に嬉しくなり、甘く狂おしい想いに促されて美子は自分から男に接吻した。
 
 情を交わしたあとも、素肌の温もりが名残惜しく離れられない。
 男の腕を枕にして、美子は陶然と寄り添っていた。
「あなたと夫婦になりたいとは申しません。それでも、わたくしはあなたのお名が知りたいのです。どうしても教えていただけないのですか?」
 男は少し身を起こすと、哀しみに面を歪め口を開いた。が、話す形で口を数度開けるだけで言葉は聞こえてこなかった。
 美子は目を見張った。
(先ほど声を聞いたのは、錯覚なの……?)  
 その割には、はっきり聞こえたような気がする。それとも、あの瞬間に聞きたかったから空耳として聞こえたのか……。しょんぼりとして、美子は男の胸に顔を埋めた。
「わたくしは……あと二ヶ月後には東宮さまに入内する身です。わたくしにその気がなくとも、きっとそうなってしまいましょう。……あなたは、耐えられるのですか?」
 美子の言葉に、男は強く抱き締めてくる。男の震えが、伝わってくる。
「わたくしは、とても耐えられそうにありません。あなたに想いをかけられたからこそ、こうやって深く交われたと思っていますもの。だからこそ……この交わりが、とても哀しいのです。こんなに深く繋がれたのに、二ヶ月後には別々になっているのですわ。こんな想いを引き摺ったままでお別れするなんて、わたくしにはできそうもない」
 涙で凝って、声が途切れる。
 こんなことを言っても仕方がないと、理性では美子も解っている。何も言ってくれない、この先の誓いもない相手に期待をしても、ひどく空しいだけだ。愚かだと解っていても、言わずにはいられない。
実りのない契りは、結局、あやまちでしかないのだ。
 が、そんな美子の心が伝わったらしい。男は美子の涙を拭うと、唇を重ねてきた。啄むように吸い、美子の顔を覗き込む。哀切な瞳が、さざ波のように揺れて美子を絡め取る。同じ想いを、美子は相手から感じ取った。哀しみと愛しさが溢れ、美子は男に強く抱きつく。彼女が落ち着くまで、男は静かに抱き締めていた。
 心が穏やかになると、ある引っ掛かりが脳裏に浮かんだ。
「どうして、あなたは消えるように去ってしまわれたのですか? あなたは……もうこの世の者ではないの?」
 慌てて、男は首を振る。男自身、彼女の質問の意味が解っていないようだ。首を傾げて考え込んでいる。美子は呆気にとられた。
「物の怪では……ないのですね。生きて……いらっしゃるのですね?」
 男が頷くと、美子はくすり、と笑った。
「そうでしたの……わたくし、昨日の朝のこと、訳が解らなかったのですよ。だから、物の怪かと……それなら、名乗れないのも道理ですものね。でも、物の怪なら、わたくしも苦しまずにすんだかもしれません」
 男が物問いたげに見つめる。
「わたくしも物の怪になれば、そい遂げることができるかもしれませんもの」
 美子がそう答えると、男はきつい眦で彼女の肩を掴んできた。美子の言葉を咎めているようであった。こうしてみると、この男は物の怪というより、まったく人間くさい。確実に、生きているのだろう。納得して、美子は微笑んだ。心の中は重くうち沈みながら……。
 朝がきて、男が消えかかると、美子は訪ねずにはいられなかった。
「また、今宵も会って下さいますよね!?」
 空気に溶け込みながら、男は哀切な笑みを浮かべ頷いた。
 辺りが明るくなるまで、美子は人知れず泣き続けた。
 


(2)へ続く


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