不確かな未来 (a title distribute by. Regenbogen)
高愼は雪華が懐妊してから、約束どおり性愛を求めようとはしなかった。ただ、妻に対する他の男への警戒心があるのか、夜中には必ず妻と同じ床で眠るようにしている。
雪華が眠っているとき、時折高愼は妻の腹に触った。まだ膨らんではいないが、己の子がここに居る。それを確認しているようだった。
「無事に生まれてこよ……」
自身の胎に夫が囁くのを、雪華は寝たふりをして聞いていた。
――旦那さまのためにも、わたくしのためにも、無事にこの子を産もう。
雪華は硬く決心していた。
雪華の懐妊が解ってから程なくして、西魏将である独孤信(どくこしん)が、洛陽にある金庸城(きんようじょう)を包囲したという報が東魏に届いた。
晋陽に居る大丞相・高歓も打って出ることになったが、先んじて高愼の異母弟である高昂と尚書右僕射(しょうしょうぼくしゃ)である侯景(こうけい)が軍を率いて出陣することになった。
出発する前日に、高昂は義兄・高愼に挨拶に来た。
「明日、洛陽に行ってまいります」
「うむ、息災に帰ってまいれ」
はい、と頭を下げて高昂はにこやかな笑顔を見せた。どこまでも陽性で剛毅な高昂は、義兄とは正反対の性格をしている。やんちゃで朗らかな彼は、雪華も話していて楽しかった。
「それよりも、義姉上にはご懐妊とのこと。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
互いに頭を下げ、微笑みあう。春瓔が冷えた薄荷水を饗し、明るい意談笑の場となった。高昂も高澄と雪華の噂を聞いているだろうに、何も言わない。彼なりの気遣いを感じられて、雪華は有り難く思った。
「義姉上、わたしがいない間、どうか摩姑(まこ)の話し相手をしてやってください」
張摩姑は高昂の母方の一族の女性で、彼の恋女房だ。雪華が高愼に嫁いだ当初、家の采配の仕方がよく分からない彼女に、摩姑は親身になって、優しく丁寧に教えてくれた。
「まぁ、摩姑さまのほうがわたくしより年上でいらっしゃいますわ。
これから子を産む身として、何人もお子さまを出産なされた摩姑さまからご鞭撻を頂きたいくらいです」
そうやって話し込んでいるうちに、夕刻になった。高愼の第を辞去する前に、高昂は真摯な面持ちで言った。
「義兄上には、色々ご立腹のことがあると思います。が、早まったことは考えず、辛抱して下さい。
高大丞相や高吏部尚書(こうりぶしょうしょ)を甘く見てはいけない。侮ると、必ずや足元を掬われます」
高澄は少し前に正三品である吏部尚書を任じられた。以前にもまして権力が増大している。
高昂は微笑み、雪華を見、義兄を見た。
「義姉上には義兄上の御子があられるのです。
何物にも揺るがされないものがここにあるのですから、苦しかったことは水に流してください」
「昂……」
にっと笑って、高昂は義兄の腕を掴んだ。暫らく強く掴んだあと、高昂は馬に跨って、手を振りながら去っていった。
「敖曹(ごうそう。高昂の字)殿は噂のことも、すべてご存じでしたのね……」
「あぁ……」
高愼は暗い眼を足元に落とした。一族を堕しめられたことに対してくよくよせずに、高昂は明るく振る舞っている。一族のためにはそれが一番だという彼の選択なのだ。
「敖曹殿には、無事にお帰り頂きたいですわ……」
雪華の呟きに、高愼はただ頷いた。
が、人の生は思うようにはいかないものである。
高昂は芒山近くの河陰(かいん)において、非業の戦死を遂げた。
西魏軍の攻撃は苛烈で、高ミの一軍は壊滅した。軽騎にて独り撤退した彼は河陽城に逃げ込もうとしたが、城の太守は開門せず、追っ手が迫っていたので高昂は橋の下に伏せた。
そこを、彼の奴が裏切って西魏兵に彼の所在を知らせ、高ミは首を刎ねられたのだ。
他にもこの戦いでは多くの戦死者が出た。が、西魏の大将軍である宇文泰(うぶんたい)が途中馬を失い、西魏の軍中が乱れた。結果的に宇文泰は軍を退き、独孤信は金庸城の包囲を解いた。それに乗じて、高歓は金庸城を焼き壊した。
元象元年八月、芒山の戦いはこうして幕を降ろしたのである。
高ミの遺体は首を失い、胴体だけが東魏に帰ってきた。
彼の妻・張氏は無残な姿の夫に初め気絶したが、気が付いてからは激しく慟哭した。が、張氏は喪主である十八歳の後嗣の男児・突騎(とつき)の後見として、気丈にも弔いの差配を全て執り行った。弔問に訪れた高愼夫婦は、青い顔をしながらもすっと背筋を伸ばしている張氏に、痛々しさを感じた。
張氏は自身の悲しみを隠して、妊娠中の雪華を労った。
「御子が安定していない時期ですのに、ご足労頂き、ありがとうございます」
雪華は白い喪服の袖を涙で濡らした。
「摩姑さまには、大変なご心痛がおありでしょうに、いらぬ気遣いをさせてしまって、申し訳なく存じます」
張氏はかぶりを振り、雪華の手を取った。
「悲しいときだからこそ、ご無事に御子を産んで頂きたいのです。
我が夫敖曹は、明るいことが大好きでした。だから、沈んでいては、鬼籍に入った夫を心配させてしまいます」
「そうですね……」
亡き夫に心配掛けまいとする、強がりなのだ。張氏の長袖は雪華のものよりも涙で湿っていた。
「せめて、御首を取り戻して差し上げたいけれど……手の者に捜させましたが、どうしても見つかりませなんだ。
夫も、無念でございましょう……」
張氏は涙ながらに、高愼にそう語った。
やつれた夫人を見るのが切なく、高愼たちは霊前から暫時下がった。その時、高愼のもう一人の異母弟・高希式(こうきしき)が弔問にやってきた。ひとしきり哭いて張氏に哀悼の意を告げたあと、高希式は義兄に頭を下げた。
「我が一族は、不運続きですね。長兄が亡くなられたあと、続けて三兄も鬼籍の人となられるとは……。
別流の高徳正(こうとくせい)殿は、大丞相殿の次子・高洋(こうよう)殿と昵懇であり前途揚々で、我ら一族とは大違いだ!」
「希式! 時を弁えよ!」
義弟に対し、高愼の鋭い一喝が飛ぶ。びくり、と高希式は肩を竦めた。
大丞相高歓の第二子・太原公高洋は、十歳をいくつか越したばかりの幼さである。それでも、渤海王家に取り入れば、出世の機会が増える。
もともと、兄や弟のように渤海王家に積極的に近づかず、地方赴任ばかりしていた高愼には関心のないことだった。高澄に妻を寝取られてからは、むしろ憎悪ばかり感じている。
そんな義兄の気持ちを考えず、高希式は話し続ける。
「あぁ、折角、長兄と三兄が大丞相入洛の折に手を貸したのに、これでは我ら一族は没落してしまう。
義姉上が高吏部尚書に見初められたというのなら、義姉上を頼りにして、もっと誼を通じることは……」
「希式ッ!!」
血走った目で、高愼は叫ぶ。歯軋りも顕わに、彼は義弟の胸倉を掴んだ。
雪華は夫の腕に手を添え制止し、はっきりした声で告げる。
「お戯れはお止しなさいませ、子通(しつう。高希式の字)殿。わたくしは現在身籠っております。
また、どのように言われようと、わたくしは夫に操を立てております。
二度と軽はずみなことは口になさいますな」
高希式はふたりからやり込められて、唇を噛む。
先程の高愼の怒号に、驚いた弔問客が顔を出した。慌てて雪華は皆に詫びる。
「皆様」
屋内から声を掛けられ、皆振り返る。
張氏が戸口に出て、夫・高昂の棺を身体で指し示した。
「どうかごゆるりと、夫と最期の別れをなさって下さいませ」
そうして、張氏は叩頭礼をする。ざわついていた場がしん、と静まり返った。皆、喪屋に戻っていく。
雪華は張氏に頭を下げる。
「申し訳ありませんでした、弔いの場を汚すようなことをしてしまいました」
夫や高希式に代わって謝る。張氏は薄く微笑んだ。
「いいのです。義兄上さまや義姉上さまからすれば、高吏部尚書の一件はお辛いことだったでしょうから。
夫もそのことにはこころを痛め、『我らが大丞相に付かなければ……』と洩らしておりました」
「義兄上が……」
高希式は眉を寄せる。
義姉を高澄に差し出せば重用される、と目論んだのは、己だけだったのだ。あてが外れ、高希式は分が悪くなった。
「義姉上さまには無事に御子を産んでいただき、義兄上さまとともに御子に癒されることを願いますわ」
そういって軽く礼をすると、張氏は喪屋のなかに戻っていった。軽く吐息すると、高愼は張氏に続いた。雪華も後を追う。
高希式だけが、その場に立ちすくんでいた。
高ミの殯は一ヵ月強続いた。が、その間に彼の首級が戻ることはなかった。
雪華は張氏を慰めるため、よく高昂の第に訪れていた。父・高歓の名代として高澄が弔問に来た日があったが、事前に張氏が知らせてくれたので、あえてその日は行かず、鉢合わせすることはなかった。
以前に比べると、弔問に来る人も少なくなった。葬儀の日には、改めて参列者が来るだろう。だから、張氏と雪華は落ち着いて話し合うことが出来た。
「そういえば義姉上さま。最近、不思議なことが立て続けにありましたのよ」
耳打つように打ち明けられ、雪華は興をそそられる。
「まぁ、何ですの?」
「驚かないで下さいね。
――夫の霊が、夜な夜なわたくしに逢いに来ますの」
「えっ?!」
思わず叫んだ雪華の口を、し――っと小声で言いながら、張氏は塞いだ。
張氏の言う顛末はこうだ。
夜、皆が寝静まる頃、摩姑を呼ぶ声がした。彼女が眠い目をしばたいて起きると、夜の闇に半分身体が溶け込んだ夫・高ミが居たのだ。
思わず摩姑は叫ぼうとした。が、声が出ない。
冷や汗でびっしょりと濡れた彼女の身体を、幽鬼となった夫が抱き締めた。そのまま摩姑は寝台に倒される。
怖さに身動きが取れない彼女の下肢の奥に咲いた蓮の花に、何かが入り込んだ。間違いなく、肉襞が憶えている夫の雄茎の感触だった。
実体はなく透けた身体をしているのに、彼女の蜜壺は確かに高ミの硬いもので摩擦されているのを感じていた。
それどころか、
『摩姑……』
と名を呼ぶ声さえ聞こえる。
摩姑は信じられないことだが、実際に夫に抱かれているのだと感じていた。そう思うと泣けてきて、彼女の身体も幽鬼との交わりに応えはじめていた。夫に蜜壺を何度も刺し貫かれて、摩姑は喘ぎ、悶えていた。
孤空にぐちゅぐちゅと響く淫らな音に、寝所の入り口で宿直役をしている侍女が目を覚ました。
どう考えても、房事に関する音である。が、服喪している間は身を謹まねばならない。いくらなんでも、夫に死なれたばかりだとはいえ、女主人も自らを慰めるようなことはしないだろう。
訝しんで、侍女は女主人の閨房を覗き込んだ。
驚いたことに、女主人は天に向かって大腿を大きく開脚していた。女主人の花房は何かを呑み込んでいるかのように開かれ、愛液を大量に流しながら蠕動を繰り返していた。
「お、奥さまッ――!!」
侍女の驚愕の叫びと、高ミが射精する素振りを見せ、摩姑が絶頂に達したのは同時だった。
侍女の絶叫に、高ミが振り返り摩姑は我に返った。彼女の身体から抜け出た高昂に指示され、彼女は慌てて寝衣の裾を直す。高ミは摩姑の背後に廻って、妻と侍女の遣り取りを可笑しげに見ている。
「お、奥さま、一体どうなさったのですか……?」
涙目になっている侍女に、摩姑は首を傾げた。
「え、あなたには旦那さまが見えないの?」
「何言ってらっしゃるんですか! 奥さま以外、この部屋には誰もいらっしゃいません!」
驚いて、摩姑は後ろから彼女を抱き締めている高昂を振り返る。彼は悲しげに微笑んだ。
摩姑は覚った。――己以外の目に、夫の姿は映らないのだ。侍女の手を取り、彼女は話しだした。
「驚かないで聞いてちょうだい。――今、旦那さまがここにいらしてるの」
「えっ?!」
侍女の驚きようは、半端なものではなかった。
「わたくしは旦那さまと夫婦の交わりをしていたのよ」
「で、では、ご、ご主人さまは、鬼……」
侍女の顔が、恐怖に引きつる。摩姑の背後にいる高昂が、寂しげに笑った。
「……そうね、そういうことになるわ」
彼女も認めないわけにはいかない。己を抱いた夫はこの世にいないものなのであると。だが、確かに彼はここに居るのだ。この世に未練を残してか、または、己への想いが糸を引いて成仏できないのか……。
「とにかく、このことであまり騒ぎ立てては駄目よ」
摩姑は侍女に言い含めた。
侍女の叫びを聞いた召使達が、急な変事が起こったのかと寝室に集ってくる。摩姑と侍女は彼等を誤魔化すのに終始した。
ふと、摩姑は顔を上げる。
妻が召使達の応対に追われているのを微笑んで見て、高ミはすうっと空間に消えた。摩姑は夫の消えた後を切なく眺めた。
「以来、夫は毎夜わたくしを求めて通ってくるのです。
幸い、ことを察して初めの夜の侍女が毎夜宿直してくれますので、夫が訪れているのに気づく者はおりませんの。
ただ、外で飼っている犬だけが、どういうわけか夫が来ているときに吠えますので、皆が不審がっていますのよ」
到底信じられぬ話を、だが雪華は真面目な顏をして聞いていた。
あるいは、そういうことも有り得るのではないか、と高ミを知る彼女は思ったのだ。高ミは本当に妻・張氏を熱愛していた。
「何だか……羨ましゅうございます。敖曹殿は、本当に摩姑さまを愛していらしたのですね……」
雪華からすれば、何気なく言った言葉だった。夫・高愼の愛を得られない彼女からすれば、高ミと張氏の愛を羨ましいと思ったのは、正しく本音である。
が、張氏は聞いた途端、ぽろぽろと涙を零し始めた。白衣の袖で顔を押さえ、涙を堪えている。やがて、彼女は声を上げて泣き出した。
「ほ、本当は、生きたあの方に、お逢いしたい……!
幽鬼となったあの方と愛し合うのは、悲しすぎます……!」
肩を震わせ嗚咽する張氏を支え、雪華も泣いた。
本当に、こんなに哀しい愛はない。死んでまでなお妻を想う夫と、死んだ夫を慕う妻が、哀しい。
「摩姑さま……きっと今も、敖曹殿は摩姑さまを見ていらっしゃいます。だから、笑っていて差し上げてください……。
生死を分っても繋がりあえる……その関係を、大事にして差し上げてくださいませ」
「義姉上さま……ッ」
雪華の胸で、張氏は泣き崩れた。
彼女が泣き止むまで、雪華はずっと一緒に居て、第を辞した。
高ミの葬儀は晴れやかな空の下で行われた。
白骨と化した高ミを納めた柩は柳車に乗せられ、奏楽に送られて墓地に向かった。親族縁者に引かれた霊柩車とともに並んで進むは、渤海高氏の紋と高ミの官爵を記した旗である。高らかに掲げられ、旗は風に棚引いていた。
機械を使って墓穴に入れられた高ミの柩の上に、土が被さっていく。造られた墳墓に墓碑を建てられ、彼の葬送は終わった。
嗣子・突騎を励ます士大夫たちを茫洋と見ながら、高愼は世の無常を思った。兄である己が弟の柩車を引いたのだ。先に逝くのは己だと思っていたものを。
既に渤海王一族に対して叛意を顕にした己。これから、どうなるのだろうか。己が流した噂は広まりだし、弟たちにまで伝わっていた。渤海王一族に伝わるのも時間の問題だ。――いつか、処罰されるかもしれない。悪い場合で死罪、良い場合で辺境の地に遠流となるだろう。雪華と腹に居る子は――…。
未来というものは不確かなものだ。これからも、どうなるか解らない。――勝負は、始まったばかりだ。
高愼はぎゅっと拳を握った。
高ミの死によって暗い翳りを負った渤海高氏一門は、それぞれに動き出していた。
弟の高季式は梁に逃げる計画を立てたが、果たさなかった。
そうしているうちに年が明けて――。
興和(こうわ)元年(539年)三月、雪華は高愼の女児を産んだ。
高愼は娘の名を「英釵(えいさ)」と名づけ、目に入れても痛くないくらい可愛がった。
雪華はその様子を見て、束の間の安堵を感じるのだった。

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