蜘蛛の巣 (a title distribute by. Regenbogen)
――またこのひとと逢うことになろうとは……。
武定元年(543年)三月。高愼(こうしん)の妻・李雪華(りせつか)は、六年前に己を凌辱した男、渤海王高歓(ぼっかいおう・こうかん)の世子・高澄(こうちょう)の前に立ち、途方に暮れていた。
東魏に対して叛意を起こし、西魏(せいぎ)逃げ込んだ男の妻として虎牢城(ころうじょう)にて捕らわれ、東魏(とうぎ)の京師(みやこ)・鄴(ぎょう)に連行された雪華は、夕刻ひとりだけ一行と離されて奢雅な一房に通された。そこに居たのは、因縁深き男・高澄だった。
雪華の夫・高愼は北豫州刺史(きたよしゅうしし)として赴任していたが、武牢(ぶろう)にて東魏から離反した。
夫は雪華よりも先に関中に入り、身の安全を確保されている。虎牢城にて子供達と供に西魏軍の迎えを待っていた彼女は、援軍が到着する前に高愼討伐のために差し向けられた東魏軍の一将・侯景(こうけい)によって捕らえられた。
彼女は高愼の子供達とともに奴婢として東魏に没収された。初め高澄は
『高愼の家族を全て捕らえて鄴まで引っ立てよ。鄴にて懲罰を行う』
と内々に将軍に告げていたが、東魏建国に手を貸した高乾(こうかん)、また元象元年(538年)に河陰の戦いにおいて無念の戦死を遂げた高ミ(こうこう)らの忠勲を立てて、高澄の父・大丞相高歓は彼等に対して身体に罰する事を止め、奴婢として払い下げることを罪科とした。
こうして、雪華は鄴に辿り着いたのである。あらかじめ彼女が鄴に入るまでに、将士が彼女を着飾らせていたため、城上より盛装した雪華を見て高澄は彼女を己がものとすることを決めた。
あるいは、『高愼の家族を鄴まで引っ立てよ』という命令も、雪華を手に入れるためであったのかもしれない。
優美な顔に斜に構えた笑みを浮かべ、長椅子に寝そべった男は雪華に語り掛けた。
「よもや、俺を忘れたわけではあるまい?
おまえの身体に消えない刻印を与え、高仲密(こうちゅうみつ。高愼の字)を追い詰めた男を」
雪華は唾を飲み込み、口を開く。
「……忘れるなど、ありえませんわ。
あなた様はこのわたくし――趙郡李氏の女の矜持をずたずたに引き裂いたのですもの。
あなた様のおかげで、夫にあばずれと蔑まれ、淫乱と罵られたのですもの。
わたくしと夫の人生は、あなた様に踏み躙られたのですわ」
柳眉を上げ、怒りに組んだ手を震わせる雪華の様子に、身を起こした高澄はおやおや、と肩を竦めた。
「それは、心外だな。
――おまえはあの頃、高仲密に愛を注がれていない、と感じていたのだろう?
現におまえは、あの宴の夜に、物欲しげに俺を見つめていたではないか――」
「止めてくださいッ!!」
巧妙に、高澄は雪華の自尊心を傷つけてくる。咄嗟に彼女は高澄の言葉を遮った。
雪華が高愼の妻となったのは、崔暹の妻・李霜華(りそうか)の姪であるという縁からだった。
雪華が十四歳のとき、崔暹の第で酒宴が行われた。雪華は霜華に呼ばれて手伝いに行ったのだが、その一ヵ月後に媒人が彼女の父・李裔(りえい)に高愼との結婚を打診してきた。高愼は崔暹の妹と結婚しており、子も数人生していた。が、高愼は崔暹の妹とどういう訳か離縁し、雪華を娶った。
高愼に嫁いだものの、夫は雪華より一回り年上の男性だった。それ故か、会話の少ない夫婦だった。当然、夫婦の交わりも高澄の一件の前は数度あったくらいだった。
高愼は他人にも己にも厳しい性質だったが、仏への信仰心は厚かった。ゆえに、寄り付いた僧と毎夜寝ずに語り合っていた。
寂しくて我慢がならなかった雪華は舌先を尽くして僧を糾弾し、高愼の手で殺させた。
それからも溝は多く、高愼は崔暹の第に幾度も泊まっていた。崔暹と語り明かしていたのか、または未だに再婚していない元妻の閨で過ごしていたのかもしれない。
雪華は夫を巡る総てのものに嫉妬した。顧みられぬ己を情けなく思いもした。が、それをおくびにも出さず、貞淑な妻を演じ続けた。
そんな時、高愼が催した酒宴で、賓客の高澄に見入られたのである。
当時、雪華と同じ十七歳だった高澄は、権力者の息子として絶頂にあった。
晋陽にて戦いに備える父・大丞相(だいじょうしょう)高歓に代わって皇帝の政務を補佐し、尚書令(しょうしょりょう)・京幾大都督(けいきだいととく)・大行台(だいぎょうだい)という高位の役職を任じられていた。
そんな高澄を宴に招いた高愼は、予め呼んでいた妓女とともに雪華を接待役として高澄に付かせた。
生来のものである美貌に、輝く若さと自負を湛えていた彼は、妓女はおろか人妻である雪華をも魅了した。
が、
『人妻といえど只の女、友ばかりに気を取られる夫に寂しい思いをしているのか?
おまえはこころの疼きを満たしてもらいたいと、餓えた目をしている』
と彼に言われたのは彼女からすれば侮辱だった。
儒教道徳に則り、淑女としての貞節を弁えた趙郡李氏の女が、さかりのついた牝猫の如く見られたのだ。これが、憤らずにいられるか――。
直ぐ様席を立ち、一切高澄に近づかなかった雪華だったが、あろうことか、その後も傲岸不遜で美しい貴(あて)な若者を、離れた宴席から意識してしまっていたのだ。
それが、あのような過ちを招いてしまったというのなら、自業自得としかいいようがない。
「必ず迎えに来る」と言って先に関中に入った夫の手が及ばず、雪華は東魏軍に捕らわれてしまった。強制的に高愼の妻という身分を剥奪され、婢に格下げされた屈辱があるのに、己と夫を東魏への離反という運命に追いやった男を目の前にして、どこかこれからの展開を期待している己がいる。
そんな己の浅ましいこころを、雪華は持て余していた。
高澄はそんな彼女を見透かしているのか、唇の端を釣り上げて手招きした。雪華は固まってしまう。
「六年ぶりの逢瀬ではないか。そんなに身構えずとも、もっと身を楽にして、俺に一生を託せばよい」
余裕のある態度で接してくる高澄を、雪華は厳しく睨み据える。
「――もっと身を楽にして、一生を託せよとは、素晴らしい綺麗事ですわね。
戦の世の常として、捕虜となった女を嬲ろうとしているだけではありませんか」
ここにある事実は、まさにそうだ。
兵率や大将の男児は殺さねばならぬが、将の妻妾や女児は勝軍の男が好きなようにしてよい習いになっていた。
女が美しければ丁重に扱われ、勝国の貴人の妾として囲われることになる。
そうでない女は、性に餓えた将士たちの慰み物として輪姦され、性奴として主人に奉仕させられるか、妓楼に下げ渡されるのが常である。
雪華が男の辱めを受けぬまま鄴に連行されたのは、まさに誰かに畜妾されるか婢として仕えるためであり、その相手が忌まわしい記憶のある高澄だっただけである。
――否、高澄が六年前と変わらず、己の身体に興味を抱いているというのなら、この成り行きもなるべき宿命であったというべきなのかもしれぬが。
高澄は笑みを崩さない。
「ひどい言い草だな。
我が父は将士に一切の略奪行為を禁じている。
おまえがここに居るのは、逃れられぬ運命だからだ。――おまえは、初めから俺のものだったのだ。
李氏一族も、おまえが俺の妾となることを進んで受け入れた」
雪華は目を見開く。
彼女の父・李裔と兄たちは、天平四年(537年)陝州(せんしゅう)に赴任していたとき、攻めて来た西魏に敗れて捕われ、父は殺され兄たちは西魏の人間になった。彼女が高愼に嫁いで一年後の出来事であった。
故に、雪華には遠い親戚しかいない。――彼女には、もとより身を寄せる場所などない。罪人である彼女に対する義理など、李氏一族は持ち合わせていないだろう。
むしろ彼らからは、彼女が高澄の寵を獲ることを利用する意図も感じられる。
魏の皇族に娘を嫁がせていた鄭氏(ていし)や馮氏(ふうし)、宋氏(そうし)や同族の李氏は、高歓が大丞相として実権を握った後、夫である皇族に逃げられた己等の娘を、高歓や高澄が我がものとしたのを許した。
そこには、実力者になびいて漢人の勢力を増すこと、また鮮卑軍族である高氏から牙を抜き、漢化させてしまうという狙いもあった。
――つまり、雪華には選択する自由はない。目の前の男の手の内に絡め取られてしまったのだ。まるで、巧妙に張られた蜘蛛の巣に掛かった獲物のように。
雪華は唇を噛んだ。
「……わたくしに自由はないようですわね。
いいでしょう、お好きなように扱ってください。
――どうせ、あなたに散々貪られた身体ですもの。今更、恐れおののく必要はありませんわ」
彼女の言葉に、高澄は片眉を上げる。
「……やけに居直るな。まるで、捨て鉢な遊女のようだ」
雪華は眉を潜め、高澄の視線から顔を背けた。
「あなた様に辱められてから、わたくしが高仲密にどのように扱われてきたか、あなた様などにお分りになるはずがない。
それに、あなた様にはわたくしの子供達を人質に捕られていますもの。
母は子のためなら何でもしますわ」
高澄の無遠慮な目に、彼女の奥に隠された傷が抉られる。
裏切り者と罵られ、売女と蔑まれ、嫉妬と怨嗟に刈られた性愛を迫られ――。
確かに、高澄に強姦される前に比べると、確実に夫婦の交わりは増えた。毎夜の如く夫は粘着質に彼女を求めてきた。が、それには「妻を男に寝取られた」という屈辱の記憶が常に夫に付いてまわり、妻を苦しめ自身の傷をなぞるという不毛なものでしかなかった。
己を粗末に扱う夫の言動に、雪華はひどく傷つけられた。あばずれ、淫売と罵倒され、娼婦のような扱いをされる度に、本当に己がそういうものに成り果てたような気がした。
が、夫と向き合うためには、淫乱のように振舞う他なかった。
そうして、夫との間にふたりの子が生まれた。今、子供達は高澄の手の内にある。
だから――今の雪華は、高澄が何を為そうと、抗う事などできない。子供のためなら何でもできる。どんな行いでも耐えられる自信がある。
雪華は高澄を真直ぐ見据えた。
「なさりたいことは、ひとつでしょう?
衣を総て脱ぎ捨てればよろしいのかしら?
それとも、あの夜のように、わたくしの衣をことごとく引き裂き、ねじ伏せるほうがお好み?」
雪華は領布を外し、帯に手を掛けようとする。
それを止めたのは、高澄の手だった。
瞠目し、雪華は顔を上げ、どこか痛ましい表情をした高澄をまともに見てしまう。
「……な…何を……」
「自棄を起こして、自ら己を堕そうとするのか。
それとも、そのように扱われてきたのか」
高澄の言葉に、雪華は息を呑む。
辛うじて出たのは、ひどく擦れた声だった。
「わ、わたくしを婢のように扱われるあなた様には、関係ありませんわ」
物の数にもならぬ「妾」という立場。主人の性に奉仕し、いつ訪れるか解らぬ男を待つのは、婢と大して変わらぬ。
高澄には妾が数人おり、既に男子が何人か生まれている。彼を巡る女たちの中心には魏の馮翊公主(ひょうよくこうしゅ)がおり、動きようのない図式が形成されている。――己は、その一角に過ぎないのだ。
まさに、女の牢獄である。
目を伏せる雪華の頤を上げると、高澄はじっと見つめてきた。一瞬、彼女はたじろぐ。
現在二十三歳。六年前より更に男ぶりを増し、美貌にも磨きが掛かっている。高澄の魅力の前には、いくら抗っても為す術がなかった。
雪華が胸の疼きを感じていると、彼の唇が彼女の唇に重なった。舌を絡ませ合い、唾液を混ぜ合わせる。
高澄が彼女の肩に触れる。その細い指が、細くたおやかな線をなぞる。雪華は衣の下から、かつてされた愛撫の記憶を思い出していた。
「――高仲密は狭量な男よな。
凌辱を受けた女を恨むのは筋違いだ。恨むなら、俺だけでよかろうに」
高澄の言葉に、雪華は様々な感慨を抱いた。ふたりも子を生したのは、それなりの情の通い合いがあったからである。夫を憎んでいたわけではない。が、いささか憚りがあり、彼女はそれを口には出さなかった。
打ち寄せてくる悦楽の波に、眉間を寄せ、雪華は首を反らせた。露になった首筋に、高澄は舌を這わせた。
襟足をたどる指の感触に、雪華の声が上ずる。
「仕方がありませんわ……自身の女の肉体を他の男に暴かれ、己の手によって開花さすべき妻の女体の悦びを、間男の手によって開かさせられてしまったのですもの。
わたくしの身体には、余すところなくあなた様の手垢が付いてしまった。夫の愛撫で乱れることのなかった女が、あなた様との夜を境に快楽を顕にするようになったのだから。
妻の身体に生じる快楽が、誰によって開かれたものか。少なくとも自身ではない――わたくしと夜を供にすることによって、夫は否応なく忌まわしい記憶を呼び起こされてしまったのです。
――夫が壊れるのに、これ以上に充分な理由はありませんでしょう。
わたくしたち夫婦の運命を狂わせたのは、あなた様です」
高澄の手によって帯を解かれ、裙を床に落とされて上着と襦の前を開かれながらも、雪華は語り続けた。
襦が肩を滑って落ち、腰巻も外される。一糸纏わぬ姿を晒す彼女を抱き竦め、高澄は耳元に囁いた。
「――そのことこそ、逃れられぬ運命だったのだ。
俺と見えぬ六年間、おまえの身体は俺を感じ続けてきたのだから。
――おまえは、俺のものだ」
低く艶やかな声が鼓膜に響く。
それだけでどうにかなりそうなのに、高澄の手は剥き出しの乳房を包み、括れた腰をさらって己に押しつけた。
袴を持ち上げ勃ちあがった彼の欲望を肌に感じ取り、雪華は頬を羞恥に染める。
雪華は顔をもたげ、高澄の面を見る。
熱に浮かされた彼の切れ長の瞳が、綺羅と輝いている。半ば開かれた唇と相まって、凄絶な色香を放っていた。彼女は思わず目を瞑る。
――あぁ、あの夜も、今宵と同じように、このひとの魅力にどうしようもなく絡め取られてしまったのだ。
隣の部屋にある寝台に横たえられ、硬い男の素肌の下に組み敷かれながら、雪華は六年前の運命の夜を、昨日の事のように思い出していた。

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