虚ろな心  (a title distribute by. Regenbogen)


 高澄に凌辱され、夫・高愼から猜疑の目で見られた雪華は、心労から高熱を発し三日の間寝込んだ。うなされつつ夢に見るのは、己を優しく包む高澄と、羅刹の如き夫の姿だった。
 四日目の朝、目を覚ました雪華のまえに居たのは、痛切な顔をした春瓔だった。額に当てていた湿った布を取り替えつつ、彼女は安堵したように微笑んだ。
 三日前に夫が無理矢理身体を交わらせてからの記憶がない。ただ、痛いほど顔を机に押しつけられ、潤いもしていない女の谷間に男の屹立を突き入れられたのだ。あばずれ、売女と蔑まれ、労りの欠けらもない交合を強いられたのだ。
 雪華は涙が出てくるのを止められなかった。夫は己が高澄にこころを奪われたのだと思っているのだ。彼に惹かれるこころは確かにあるが、雪華には夫・高愼こそ大事なひとだった。高澄に逢えなくとも構わない。が、夫に嫌われるのだけは堪らなく嫌だった。

 ――わたくし、生きていられないかもしれない。

 夫は己が高澄に抱かれたことを忘れない。この事実は、一生付き纏うだろう。それなら、死んでしまうほうがましだった。――雪華は、自ら命を絶つ決意をした。
 寝台に寄せられた小机には、水の貼られた盥が置いてある。雪華はごくり、と唾を飲む。枕元に付き添っている春瓔を、彼女は手招く。

「お腹が空いたわ。久しぶりに春瓔のお粥が食べたいの。作ってくれないかしら」

 雪華の願いに、春瓔は頷く。

「ようございます。代わりの侍女を呼びますので、今暫らくお待ちを……」
「大丈夫よ。熱ももう引いたもの。ひとりで待てるわ」

 ですが……と渋る春瓔を厨房に追いやり、人気がなくなったのを確認すると、雪華はふらつく身体で鏡台に近付いた。引き出しを開け、細長いものを取り出す。――それは髪の手入れをするときに使う剃刀だった。
 寝台まで戻ると縁に腰掛け、雪華は手首を剃刀で掻き切る。鮮血が流れ出てきたのを確認すると、もう片方の手の血管も同様の行いを施し、盥の水に両手を浸けた。みるみる盥の水が赤く染まっていく。

 ――このまま、全身の血が抜ければいい。

 そう思い、雪華は顔を伏せた。どれくらいそうしていたのか、手の感覚が無くなってきた。そのまま、雪華は目を閉じ、意識が消えるに任せた。
 誰かの叫びを聞いたような気がした。が、雪華の意識は混濁のなかに落ちた。




 次に目が覚めたときには、寝台に寝かされ、両手首に包帯が巻かれていた。雪華は死に損ねたのだと悟る。

 ――わたくし、まだ生きてるの?

 手首が痛くて、動かせない。嗚咽する雪華は、大きな音を発てて扉が開けられたのに驚いた。
 厳しい面持ちをした高愼と、泣きじゃくっている春瓔が入ってくる。寝台に横付けられている小搨に座ると、苛立たしげに高愼は腕組みした。その後ろに控えている春瓔が声を震わせ言った。

「ご、ご自分でお命を捨てられるような真似は、お止めくださいませ!
 春瓔は、生きた心地もいたしませぬ!」

 雪華は夫と春瓔から目を反らし、天井を見る。

「生き恥を曝すなら……死んだほうがましだと思ったのです。
 あの時、高都督に犯される前に死を選んでいれば、こんなことにはならなかった……」

 彼女の嫋々とした呟きに、鼻白んだように高愼は口を挟んだ。

「あの折に死ねようものなら、今度も躊躇い傷を切るようなことはしまい。
 本気で死ぬ気ならば、首を吊るなり、頸動脈を掻き切るなりするはずだ。
 おまえが切ったのは、致命傷には至らぬ血管だ」

 高愼の指摘に、雪華は何も言えなくなる。春瓔が気色ばんで高愼に食って掛かった。

「ご、ご主人さまは、奥さまに死ねと仰るのですかッ!」
「寝取られ男の汚名を着せられるのなら、死んでくれたほうがよかった」
「ご主人さまッ!!」

 錯乱状態になる春瓔。雪華は彼女を見、声を掛けた。

「……春瓔、わたくしの身体を起こして頂戴」

 女主人の命令に、春瓔は渋々従い、雪華の背中に緩衝枕を置いた。

「旦那さまとお話をしたいの。春瓔、お願いだから下がって」
「ですがっ……!」

 否やを言おうとする側近に、雪華は黙って目を当てる。余りにも静かな様子に、春瓔はなにも言えなくなり、すごすごと下がっていった。
 雪華は高愼に向き直ると、頭を下げる。

「わたくしは思い切りの悪い女です。どうか、旦那さまの手で命をお絶ち下さいませ」

 高愼の手で死なせてもらえるのなら、願ってもないことである。優しかった夫の荒れた姿など、見たくはない。彼を元に戻すのが妻の勤めであり、雪華は本望だと思った。
 が、高愼の口から出たのは、信じられぬ言葉だった。

「ならぬ。わたしを裏切ったそなたを、そう簡単には死なせぬ。死よりも重い苦しみを味わってもらう」

 雪華は目を見開く。死よりも重い苦しみ……? それはどういう意味だろう。彼女は夫の本意を推し量れない。

「いや……淫らなそなたには、願ってもないことだろうがな」

 え――…? と言葉の意味を理解できない雪華は、次の瞬間、唇の端を釣り上げて嗤う夫の顔に、怖気を感じた。

「だ、旦那さま……っ? どうなされたのですか」

 血の気が失せて蒼白な雪華を、高愼はそのまま寝台に押し倒す。瞠目する雪華。帯を解かれ、寝衣を脱がされてしまい、彼女は夫の意図を察した。

「い、嫌です……! お止めになって……!」

 身体の自由の利かない雪華は、言葉で抗うしかない。例え夫に通用しないと解っていても。

「一生喘ぎ、乱れ続けろ。破廉恥なおまえには、それが相応しい」
「あなたッ――!」

 怖い、このひとが。雪華は夫に対して、初めて本能的な怖さを感じた。が、乳首を摘まれ、息を呑む。くりくりと捻るように揉まれ、彼女は腰をもじもじとさせた。高愼は雪華の背に敷かれていた布団を取ると、彼女の尻の下に置き、妻の大腿を開脚させる。ぱっくりと裂けたあけびの実が露になる。

「そら、丸見えだぞ。牡が欲しいとひくひくしている」
「いやあぁぁッ!」

 雪華は悲鳴を上げ、身を捩ろうとする。が、夫に膝を持たれたまま逃げられない。
 夫はこんなひとではなかった。何が夫を変えたのだろう? 雪華は自問自答する。己が高澄に抱かれたからこうなったのか。二度目はないものを、どうしてこのような真似をするのか……。
 雪華は手が痛むのを堪えて、夫に触られ放題になっている身体を起こそうとした。

「どうか、信じてくださいませ! わたくしは、裏切ってなどおりませぬ!
 一生お仕えするのは、旦那さまだと……!」

 彼女が言い終わらぬうちに、高愼の平手が飛ぶ。強かに打たれて、雪華の上肢は寝台に逆戻りした。

「信じよだと? ぬけぬけと言いおって!
 高子恵に抱かれた朝に呼んでいたのは、誰の名だ!」

 激昂し、高愼は雪華の柔らかな乳房に噛み付く。彼女は歯を食い縛って痛みに耐えた。諦めず、言葉を続けようとする。

「魔が差したのです……旦那さまに振り向いてもらえず、寂しかったのです」

 ぴたり、と高愼の愛撫の手が止まる。ほっ、と雪華は息を吐いた。
 一生言うことなどないと思っていた本音だった。どんなに高澄に優しくされようと、夫に愛してもらってさえいれば揺れなかったはずだ。
 女が自身のこころを明け透けに語るのは、貞淑を美とする儒教道徳的には善からぬことであった。こんなことでもなければ、語る機会など無かっただろう。そう考えると、却ってよかったのかもしれない、と雪華は思った。
 不意に、くくく……と夫の哄笑が聞こえてくる。雪華はぞくり、と寒気を覚えた。

「わたしに振り向いてもらいたかっただと……? よかったではないか、高子恵のお陰で、我らは身体で語り合っている」
「あなたッ!」

 そういうことが言いたかったわけではない。そうなることは望んでいない。ただ優しくして欲しいだけだ。

「これからも、存分に身体で語り合おうものよな……?」

 そう言って、高愼は妻の乳房を揉みしだいた。先程噛まれた場所から、血の玉が出てくる。彼はそれを舐め取った。白い果実全体を揺すり、木苺の実を捏ね回した。
 もう何を言っても、理解してもらえない――雪華は絶望し、虚ろなこころで夫の為すが儘に任せていた。身体は愛撫を受ければ、正直に反応する。乳房を嬲られているうちに、堪らなくなった下肢が蠢き始めた。高愼は濡れそぼった秘苑に指を差し入れた。思わず、彼女は尻を弾ませてしまう。

「尽きることのない湧泉だな、実に淫猥だ。
 どれ、どこまで溢れるか試してみるか」

 ぬちゃぬちゃと音をさせて、高愼はざらつく壁を擦りあげる。皮が剥けた小粒に彼は舌を這わせる。

「ああぁっ……お許しに……なってぇっ……」

 頬を赤く染め、前髪を汗で額に貼りつかせながら、雪華は身悶えた。隠しようもなく曝された花園が、小瀑のように泡立つ蜜を流し続ける。尻のしたに敷いた敷物は、既に雪華の愛液がぐっしょりと濡れていた。
 高愼は女の瀞場に口を付け、舌を抜き差しした。差し込まれた舌を、淫らな襞が絡め取る。好い所を舌先で刺激された雪華は全身をわななかせ、頂点に連れ去られた。

「い……逝くッ――!」

 口をぱくぱくさせて空気を貪りながら、雪華は洞から淫らな湧き水を吐き出した。高愼はそれを全部飲み干す。
 朦朧としながら、雪華は夫が着ているものをすべて脱ぐのを見ていた。四十越したばかりの歳だが、まだまだ若い者には負けてはいない身体付きだった。中年独特の脂の溜まった腹廻りではなく、引き締まって腹筋も割れている。男の象徴も、魁偉で黒光りしている。
 嫁ぐ前の十四歳の雪華は、一回りも歳が違うという夫に不安を抱いたが、初夜の床で夫を見、存外年若いという感想を抱いた。だから、素直に夫に従うことが出来たのだ。
 雪華は涙を流し、のしかかってくる夫を見た。高愼は訝しげな目を当てる。

「どうした?」

 問われて、雪華は痛む手を高愼の背に廻し、夫の薄い唇に口づけた。当惑しているのか、夫から反応は返ってこない。軽く触れ合わせるだけで、雪華は唇を離した。
 高愼は皮肉な笑みを浮かべる。

「……どうした、気を引きたいのか」

 雪華は眉間を曇らせ、静かに首を振った。
 高愼は泣いている雪華に構わず彼女の蜜壺を猛々しいもので貫いた。雪華の口から呻きが漏れる。始めから容赦のない突きに、彼女は吹き飛ばされないよう夫の背に縋った。ぐちゅぐちゅと漏れ出る水音。過敏な場所を抉られ、雪華は喘ぎ続けた。

「あ…愛して、いますッ!」

 唇をわななかせ、雪華は渾身の想いを告げる。が、聞きたくないのか、高愼は彼女に接吻して言葉を封じた。強引に絡められた舌に、雪華は無心で応える。
 激しくなる互いの淫部の動き。何を奪い取ろうというのか、何を貪ろうというのか解らぬまま、ふたりは上り詰めていった。

「あ、あなたぁッ、あなたぁッ……!」

 絶頂を迎えた瞬間、強い力で雪華は夫にしがみ付いた。んんんんっ……と小刻みに震え、彼女は夫から精を搾り取った。びくっ、びくっ、と痙攣し射精する夫を、彼女の女は受け入れた。

 ――愛されたかったのは、愛していたからなのだ。とうの昔に、わたくしはこのひとを愛していた。

 情交後の気怠さに横たわっている高愼に、雪華は擦り寄っていった。夫の胸板に頬を付けて、その心音を安らかなこころで聞いていた。高澄のことがあってからきつく当り続ける夫も、何故か彼女の甘えを許している。

 ――愛しています、あなた……。

 受け取ってもらえない言葉を、雪華はこころのなかで夫に囁き続けていた。
 急に手が動いたかと思うと、高愼は雪華を退け、寝台を降りた。雪華は手を伸ばすが、届かない。背を向けたまま手早く服を着込み、彼は言った。

「また手首から血が出ている。侍女を呼びに行くから、寝衣を着て待っておれ」

 雪華は夫を呼び止めようとした。が、適わず、高愼は寝所から出ていった。
 ――夫のこころが、掴めない。本心から愛していると言ったのに、何故伝わらないのか。どうして高澄に抱かれたことに強く拘るのか。雪華のなかでは、高澄との一夜は過去になりつつになりつつあるというのに、夫は過ちを過去のものとしてくれないのか。
 雪華は寝衣を着込みながら、秘かに泣いた。




 女主人の手首の手当てをした春瓔は、一緒に雪華の部屋を出た高愼に向き直り、手厳しく批判した。

「奥さまに対して死ねと仰りながら、夫婦の交わりをなさるなど。ご主人さまは矛盾していらっしゃいます。
 手首を切った奥さまを発見なさった時のご主人さまは、随分と取り乱していらっしゃいました。
 ご主人さまの本音は、一体どこにございますのでしょうか?」

 普段から近しく雪華に傅いている春瓔は、女主人が情事のあとの乱れを垣間見せている事を見抜いていた。思えば、己を部屋から追い出してから主と女主人が長い時間一部屋に籠もっていることを不思議に感じていたのだ。
 女主人が熱を出す切っ掛けになったのも、渤海王の世子に凌辱されたことと、主に犯されたことのふたつが原因だと解っていた。四日前の昼、気を失った女主人を寝所に運び込んだのは主だった。女主人の萌黄色の裙は湿り、血の赤と精液の白で染まっていたのだ。何があったのか、容易に察知できた。
 その後、春瓔は女主人の身体の手当てをし、ややあって彼女が熱を発したので、付きっきりで看病した。盥の水と氷を交換するため彼女が席を外したとき、いつの間にか主が女主人の枕元におり、汗ばんだ額を撫でていたのを目撃した。
 今回の女主人の自殺未遂も、発見した当初の主は見ていられぬほど錯乱していた。
 遠慮のない侍女の目線に、苛立たしげに高愼は髯を扱く。

「侍女如きが、いらぬ詮索をするな!」

 が、春瓔の目は緩まない。

「わたくしは高氏の第に入ってからは、ご主人さまにお仕えしております。
 が、もともとは李氏の第にあった時から、奥さまに付き従っておりました。ですから、わたくしはご主人さまより奥さまを優先いたします。
 わたくしは、自らの身を挺しても、奥さまをお護りする覚悟でございます!」

 気魄を篭めた発言に、皮肉げな笑みを浮かべ、高愼は侍女を見た。

「それは、愁傷な心がけよ。ならば何故、雪華を高子恵の手から護らなんだ!」
「そ、それは……」

 漢人貴族である渤海高氏よりも、鮮卑軍族である大丞相の一族のほうが力が強かったからだ。特に若いだけあって、渤海王の世子は短気で、怒らせると何をするか解らない。
 それならば、一夜だけ女主人の肉体を渤海王の世子に提供して、穏便に済ませたほうが後々面倒な事にならないと思ったからだ。だから、春瓔は召使や奴婢が金子を握らされているのを黙ってみていた。従順の印として彼女自身も金子を受け取り、寺院に喜捨した。
 が、渤海王の世子に女主人を抱かせるということは、女主人に不貞を働かせることであり、主と女主人の間に亀裂を生むことに他ならなかった。
 が、寄せてくる渤海王の世子の欲望の波に、か弱い女である己が抗することなど、出来ようはずがない。たとい身を挺して女主人を庇っても、あたら己の命を捨てるだけで、女主人の貞操を護ることは、出来なかったに違いない。

「……わたくしやこの第の者が、果たして高キ督の魔の手から奥さまをお救いする事が出来たでしょうか。流血の惨事になることは免れぬでしょう。
 わたくしは、奥さまを責めるご主人さまにこそ、非があるように思えます。
 どうして普段から、奥さまのお側に居て差し上げられなかったのですか? あの夜も、ご主人さまさえ奥さまのお側に居てくだされば、高キ督でも押し入っては来れませなんだのに」

 春瓔の恨めしげな言葉に、高愼は瞠目する。

 ――雪華を護れなかったのは、わたしのせいか。

 あの夜、崔希倫に誘われなければ、高子恵に妻を奪われずに済んだのだ。雪華も、己さえ側に居れば、高子恵にこころ惹かれなかったのだ。
 そこまで考え、高愼は目をかっと見開く。

 ――まさか、希倫……。高子恵に命ぜられて……?!

 現在の崔暹の立ち居地は、同族の崔季舒とともに、高澄の側近という立場だ。崔季舒は高澄の掌媒(しょうばい)をしているが、崔暹も同じ立場だとしたら……? まさか、品行方正な崔暹に限ってそんなことはない、と高愼は急いでその思いを打ち消した。



 が、芽生えた疑惑は消えない。
 高愼は暫く湧き出でた黒い闇を消す事が出来なかった。




憎悪

燃える月






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